2026年前半のENSは、暗号資産市場でも珍しい矛盾を抱えている。.eth ドメインの登録と更新は過去最高水準へ向かって伸びているのに、ENSトークンの価格は2021年以来の安値圏まで沈んだ。3か月で約57%下落し、4月下旬には5.94ドル前後、6月5日には4.47ドルの安値をつけた。実需が伸びてトークンが売られるという、表面的には説明のつかない動きをどう解釈するか。本記事は、このデカップリングがなぜ起きているのかを、トークン設計・収益構造・資金フローの3点から分解する。
トークン価格と.ethドメイン需要が連動しない理由
まず押さえるべきは、ENSトークンを保有することと.ethドメインを使うことが、経済的にほぼ無関係だという点だ。ドメインの登録料・更新料はすべてETH建てで支払われ、ENSトークンは一切要求されない。ENSトークンが持つ機能はガバナンス投票だけで、プロトコルの売上がトークン保有者に分配される仕組みは存在しない。
この設計が、実需の伸びがトークン価格に伝播しない一次的な原因になっている。ユーザーが.ethを買えば買うほどENS DAOのトレジャリーにETHが積み上がるが、その価値はトークンのキャッシュフローには変換されない。アクティブな.ethドメインは2026年時点で約280万件、デイリーのネームルックアップは約320万件に達しており、プロトコルとしての利用は着実に拡大している。にもかかわらずトークンが売られるのは、市場がENSを利用量に連動する資産ではなく、純粋なガバナンス資産として価格付けしているからだ。
利用量とトークン価格が分離する現象自体は、ENS固有のものではない。ネットワーク活動に対して大幅なディスカウントで取引されるユーティリティトークンは、暗号資産市場では広く観察される。ENSの場合、その乖離が極端に見えるのは、登録数という実需指標が公開オンチェーンデータとして可視化されており、価格との対比が鮮明に出るためだ。
ガバナンス専用設計が生む投資家心理
ENSトークンの総供給は1億で固定されている。配分の半分はDAOコミュニティトレジャリーに割り当てられ、ローンチ時に10%、残りは4年かけてリニアにベスティングされる設計だ。流通供給は2026年6月時点で約4,040万。つまり完全希薄化評価(FDV)は時価総額のおよそ2.5倍にあたり、今後の供給増が上値を抑える構造的な要因として残っている。
ここで投資家心理に効いてくるのが、トークンに価値が還流する経路が見えにくいという点だ。プロトコルがいくら収益を生んでも、その恩恵はETH建てでトレジャリーに溜まるだけで、バーンやステーキング報酬のような形でトークンに直接フィードバックされない。配当もバイバックも制度化されていない状況では、トークンの価値は「ガバナンス権の希少性」に依存する。そして約50人のアクティブなデリゲートが実質的に投票を動かしている現状では、一般のトークン保有者がガバナンス権に高い対価を払う動機は弱い。
この構図は、2026年Q2に予定された更新フィー再構築の投票で試されることになった。短い3〜4文字のプレミアムネームの更新料を引き上げ、長い名前を安くするという案で、トレジャリー収益を増やしつつ通常ユーザーの負担を抑える狙いがある。賛成派はプレミアム名前空間の商業価値を価格に反映できると主張し、反対派はENS内に階級構造を持ち込むと批判した。DAOがこうした複雑な経済政策を実際に実行できるかどうかが、ガバナンストークンとしてのENSの評価を左右する分岐点になる。
ENS Endowmentが支えるプロトコルの存続耐性
トークンとプロトコルが分離しているなら、投資家が次に問うべきは「実需が一時的に落ちてもプロトコルは生き残れるのか」だ。この問いに対する答えがENS Endowment(基金)である。
Endowmentの目的は明確で、ETH価格が下落しても、あるいは登録・更新収益が減っても、ENSが財務義務を果たし続けられる状態を作ることにある。2022年11月、DAOはランク選択投票でKarpatkey(Gnosis DAO発のDeFi運用組織)を運用者に選び、Steakhouse Financialと協働でトレジャリーの大半を運用する体制を組んだ。2023年3月7日に第1トランシェとして16,000 ETHを基金に移し、Karpatkeyは低リスク・中複雑度のDeFi戦略で年5%台のリターンを目標に据えた。資金はETH建てとUSDC建てに分散され、運用は非カストディアルかつオンチェーンで透明に行われる設計になっている。
ただし、トレジャリー全体の構成を見ると財務的な脆弱性も浮かぶ。基金選定当時のトレジャリーは約9.3億ドル規模だったが、その大半はENSトークン建てで、ETHは約4,300万ドル、USDCは約240万ドルにとどまっていた。自己トークンが資産の中心を占める構造は、トークン価格が下がればトレジャリーの名目価値も連動して縮むことを意味する。Endowmentがあえて運用資産をETHとUSDCに寄せているのは、この自己トークン依存から運営資金を切り離し、市況に左右されない安定財源を確保するためだ。2025年11月には6,000 ETHを新設のSafeに移してCowのTWAPでUSDCにスワップする提案が執行されており、ステーブル比率を高める運用が続いている。
サブネーム経済圏が示す「もう一つの実需」
.ethのトップレベル登録数を実需の指標とすると、ENSの利用規模は約280万件に見える。だが実際のユーザー数はこの数字をはるかに上回る。鍵を握るのがサブネーム、とりわけオフチェーンで発行されるサブネームだ。
オフチェーン・サブネームは2026年初頭時点で1,500万〜2,000万件存在すると推計されている。最大の発行者はCoinbase Walletが配るcb.id、次いでUniswap Walletが配るuni.ethだ。Uniswapはuni.eth配下のサブネーム(たとえばuser.uni.eth)をオフチェーン解決で無料発行しており、2025年9月までに累計200万件を超えた。これらはガスレスで取得でき、資金のない新規ウォレットでも作成でき、全ENS対応アプリで解決できる。Ethereumネットワークを圧迫せずに数百万件規模へスケールできる点が、ウォレット事業者に選ばれている理由だ。
ここに、デカップリングを別角度から説明する材料がある。.eth名の登録収益はすべてENS DAOに流れるが、オフチェーン・サブネームは原則としてENS DAOに直接の登録収益をもたらさない。つまりENSをアイデンティティ基盤として使うユーザーが爆発的に増えても、その大半はDAOのトレジャリーにもトークン価値にも直結しない。利用者数の拡大とプロトコル収益の拡大が、必ずしも同じ曲線を描かないということだ。ENSの普及をユーザー数だけで測ると、収益とトークンへのインパクトを過大評価することになる。
L2と大企業がENSをインフラに取り込む縦の採用構造
競合との横の比較とは別に、L2や大企業がENSを自社インフラとして取り込む縦の動きが、ネットワーク効果の実体を形づくっている。
その典型がCoinbaseだ。同社はブランドL2であるBaseを立ち上げ、その上でbase.eth配下のサブネームを全顧客のアイデンティティ層として発行し、決済用ステーブルコインと組み合わせ、既存のUIからユーザーを直接オンチェーンへ送り込むプレイブックを確立した。2025年7月17日に発表されたBase App(Coinbase Walletの後継)は、base.eth配下サブネーム、farcaster.eth配下サブネーム、レガシーの.ethを完全サポートし、Smart Walletユーザーはsponsored Paymaster経由でガスレス登録ができる。大規模なユーザーベースを持つ企業が、自前のL2を立て、その上にENSベースの命名サービスを載せるという型を、Coinbaseが先に敷いたかたちだ。
この型はBaseに限らない。LineaやZKSync上のサブネーム、UniswapやClaveといったdApp・ウォレットも、L2上でサブネーム発行へ動いている。Base自体はネイティブトークンを持たずガスをETH建てで支払う設計を採っており、経済的にEthereumと整合する。ENSの採用が進むほどETHエコノミーと連動が強まる構造になっており、ENSはアプリやチェーンが乱立しても共通の命名標準として残りやすい。これがENSの堀(moat)の実体であり、横の競合に対する優位を支えている。
競合との差はビジネスモデルの違いに集約される
ENSの競争環境を整理すると、競合は奪い合いよりも統合へ向かっているという特徴が見える。
ENSはレント型を採り、.ethドメインは年次更新を必要とする。これがUnstoppable DomainsやSolana Name Service(SNS)の買い切り型との決定的な違いだ。買い切り型は更新料という継続収益を持たない代わりに、ユーザーに永久所有を提供する。ENSは更新フィーで継続的な収益源を持つが、ユーザーは毎年コストを払う。どちらが優れているかは用途次第で、Ethereumネイティブなアイデンティティ、オンチェーンの合成可能性、開発者標準、サブドメインプログラム、DNS証明を求めるならENSが有利になりやすく、一度きりの支払いでマルチチェーンのブランディングを求めるならUnstoppableが選ばれやすい。SNSはSolanaの高スループットと低手数料を背景に、Solona圏での深い統合を武器にするが、クロスチェーンの汎用性は犠牲にしている。
統合の流れを象徴するのが、かつての競合だったUnstoppable Domainsが.eth名を自社プラットフォームで販売した事例だ。Unstoppableは.eth名を原価(プラスガス)で売り、その売上はすべてENS DAOへ直接流れる。これは提携ではなく、誰でも統合できるパーミッションレスなENSプロトコルへの統合にすぎない。.eth名が売れるほどENS DAOの収入が増えるため、競合の統合がENSの実需を押し上げるという、命名標準を握る側に固有の力学が働いている。
ENSv2への移行とガバナンス構造の再編
技術面で2026年最大の転換点となったのが、ENSv2の方針変更だ。2026年2月、ENS LabsはENSv2をEthereum Layer 1のみで展開し、計画していた専用L2のNamechainを撤回すると確認した。理由は、ENS操作にかかるL1ガス費が約99%下落し、専用L2を持つ経済合理性が失われたことにある。数か月を費やしたNamechain構想(NethermindのSurge、Taikoのrollupスタックとの提携)を撤回したこの決定は、DAOガバナンスが実権を握っていることを示す事例にもなった。ENSv2はプロトコルの全面的な書き直しで、階層的なレジストリによるユーザー制御の強化と、CCIP-Read経由のマルチチェーン相互運用の改善を狙う。一方で、将来Ethereumが混雑すれば高フィー懸念が再燃するという技術的なトレードオフは残る。
ガバナンスの器そのものにも再編の動きが出ている。2026年6月、ENS Foundationのボードメンバーが「Next Era of ENS DAO」と題したTemp Checkをガバナンスフォーラムに投稿した。5議席のFoundationボード(フルタイムのExecutive Directorを含む)を設け、運用ウォレット・ENSトークン保有・Endowmentの管理をFoundationガバナンスへ委譲する案だ。一方で、プロトコルのアップグレード、ENSの価格設定、ルートキーの制御、ディレクターの任免は引き続きオンチェーンのトークンホルダーに残す線引きになっている。独立ディレクター3名は年4万USDCで報酬を受ける構成だ。どの権限をオンチェーンに残し、どこを専門化された運営体に渡すか。この線引きが、ENSのガバナンスを評価するうえでの実務的な論点になる。
投資家がENSをどう位置づけるか
ここまで見てきた構造を踏まえると、ENSは「実需プロトコルとしてのENS」と「ガバナンストークンとしてのENS」を切り分けて評価する銘柄だと言える。プロトコルとしては、L2や大企業がアイデンティティ層として取り込む縦の採用が進み、サブネームを含めた利用者数は登録数の見かけを大きく上回って広がっている。Endowmentによって弱気相場の存続耐性も一定程度は備えている。
他方でトークンは、収益が還流しないガバナンス専用設計、自己トークン中心のトレジャリー、供給増の余地という3点が上値を抑える要因として残る。実需の伸びとトークン価格が分離しているのは市場の誤認ではなく、設計に根ざした帰結だ。フィー再構築やトークンへの価値還流をめぐるガバナンスの動き、ENSv2の実装進捗、そしてオフチェーン・サブネームがいずれDAO収益に接続される設計が出てくるかどうか。これらが、両者の乖離が縮むか広がるかを決める観測点になる。ENSへの投資判断は、ドメイン登録数という分かりやすい指標だけでなく、その数字がトークンの価値にどう接続されているか(あるいは接続されていないか)を見極めることに尽きる。